かもしれないブログ

そうだったら良いなと思うことを書いています。

化石

化石ってすごい。その化石を見ただけで、その化石が何万年前にできたとか、昔は浅い海の底だったとかがわかるのだ。

 

僕の中にも、化石になった音楽がある。

 

中学の頃にいつも車で流れたかりゆし58、高校の時に初めてバンドでやったcoldplay、大学一年の春初めて聴いたELLEGARDEN

 

その当時は猛烈に聞き込んでいたけれど、いつの間にかあまり聞かなくなってしまった。

 

ふとした時にそういう曲を聴くと、聞き込んでいた当時の何気な〜い記憶が思い浮かんできて、ハッとすることがある。

 

それは車の芳香剤の香りだったり、バンドメンバーのギターケースの色だったり、スタジオに向かう自転車のペダルの重さだったりと様々だ。

 

今では、そういう全ては遠いものになってしまった。でも僕には、聴くたびにそんなどうでもいいような記憶を思い出させてくれる音楽がある。そういうのを思い出すたびに、恥ずかしいような、ちょっと誇り高いような妙な気持ちになる。

 

今、サークルの友達とオリジナルの曲を作っている。先日「音楽が思い出させてくれる何気ない記憶」みたいなものを切り口にデモを作ってみた。完成まではあと数ヶ月かかる。

 

来年は大学も最後。変動の年だ。来年の今頃には就職先が決まったり、卒論に追われていたり、今では想像もつかないようなことが起きているんだろうなあ。

 

今はその変動に向けて、就活の準備とかに追われている。とにかく心に余裕がないのが自分でもわかる。そのあくせくした心境が、曲のデモにも反映されてしまった。

 

何はともあれ1年後の今日、完成した曲を聴いて今年のことを思い出せたら面白い。「あの時は無駄にいろんなことに切羽詰まっていたなあ」とか思うのかな。それならそれでいい。それでまたがむしゃらにその次の年に奮起してくれたらもっといい。

 

化石は長い年月の間に、石油だとかガスみたいな燃料になる。しょうもない思い出を再生するだけに思える音楽の化石も、積もり積もって何年後、何十年後かの自分のエネルギーになるのかもしれない。

 

弁当を守ること

弁当を持つ日はやけに緊張する。

 弁当というのはとても傷つきやすく、ちょっとぐちゃぐちゃになっただけですごい罪悪感にさいなまれるものだからだ。

 

 

高校時代はずっと弁当生活だった。
朝、炊き立てのご飯と出来立ての料理を詰められてほんのり熱を帯びた弁当箱を受け取る。ここが弁当のピーク。ここからは時間との戦いだ。時間が経てば経つほど、ご飯は水分でぺちゃぺちゃになり、おかずもみるみる冷めていく。

 

さらに通学のバス。こいつが厄介だ。
弁当箱は通学バックに入れずに手に提げて持っていくのだが、落としたりしては大変だし、ちょっとした揺れでも中身が心配で落ち着かない。バスの中に弁当を置き忘れた日などは絶望的だ。放置されたお弁当がそれはもうかわいそうで、取り戻すまではおちおち学校になんて行っていられない。

 

無事に学校についたとしても油断は禁物。
机の横に弁当箱をかけておくとふとした拍子に落ちてしまうかもしれないし、ロッカーに入れていてもカバンを取り出す際に引っかかって落としてしまうときもある。

 

そういうミスを犯して弁当の中身が一方に偏ったり、おひたしの汁が炒め物のゾーンに流れ込んでぐちゃぐちゃになったりしたときは、決まって胸が締め付けられる思いがした。

 

誕生日プレゼントの場合だと、受け取った人がプレゼントをもらってから消費する(プレゼントを身に付けたり食べたりする)までにあまり時間はかからない。だから消費する前に、もらった人がそれを壊してしまうなんてことはほとんどない。


一方で、弁当の場合はプレゼントと違って、もらってからそれを消費するまでの大半の時間、もらった人がそれを管理しなくちゃならない。多くの場合は半日以上、しかも移動を伴う。だからプレゼントと比べて、もらった人が消費する前にそれを壊したり損なったりしてしまう可能性が高いのである。

 

弁当は壊れうる、自分の手で壊しうる愛情なのだ。僕はそれを壊してしまうのが怖い。
だからどうしても弁当を持たされると身構えてしまう。

 

でもそもそも、他人から受ける愛情というのはそういうものなんじゃないか。
自分のちょっとした言葉や振る舞いが、その人の気持ちを傷つけることなんて日常茶飯事だ。「傷つきました」と相手から直接告げられない場合も多いかもしれないが。

 

弁当はしばしば広告やドラマの中で、愛情の象徴のように扱われる。
その理由は単純。弁当を毎日作るのはとても労力のいることだからだ。朝早くから準備しなくちゃいけないし、前日から弁当のメニューを考えて材料を用意しておかなきゃいけない。

 

でももしかすると弁当が愛情の象徴とされる一番の理由は、弁当は「愛情というのはちょっとした不注意でいとも簡単に壊れてしまうのなのよ」ってことをさりげなく思い出させてくれるものだからなのかもしれない。

 

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魚の皮を食べる人・残す人

 

「自分の好きなものを、もっと多くの人に知ってもらいたい」とよく思う。

 

自分しか知らないようなマイナーな漫画や小説、それに映画。
「こんなにいいものを知らないのはもったいない!」と思うのだ。
そういう意図もあって、僕はまとめサイトでカフェの紹介記事を書いたり、Filmarksや、本や映画や美術展の感想用のインスタグラムで長々と感想を書いたりしてる。そのすべては、「いいもの」をより多くの人に知ってもらうためだ。

 

ただ、自分の好きなものが有名になったらなったで厄介なことがある。
簡単に言えば、「にわかファンが増えること」だ。
にわかファンが増えることはなぜ悪いのだろうか。いや、そもそも悪いことなのだろうか。
今日はそれを考えてみたい。

 

長年のファンがにわかファンの増加を嫌うのには、大きく分けて二つの理由がある。

 

一つはよく言われる「サブカル選民思想」を持つことができなくなること。
「サブカル選民思想」とは、簡単に言えば「マイナーなジャンルを好きな俺はすごい!流行を追うだけの頭の悪いあいつらとは違うんだぜ!」というものだ。
その思想の良しあしはともかく、自分の好きなバンドがメジャーデビューして有名になれば、「みんなとは違う趣味のいい俺様」は流行に流された烏合の衆の一人に成り下がる。確かにそれは嫌だ。でもこれはあまりに自分勝手な理由だから、にわかファンの増加を悪くは言えないよね。

 

今日僕がしたいのはサブカル批判じゃない。
今回話題にしたいのはもう一つの理由。

名付けて「魚の皮理論」。


ここから先は僕の表現力とあなたの想像力とのせめぎあいだ。
想像していただきたい。
あなたは焼き魚が好きだ。具体的にはなんでもいいんだけど、鮎(あゆ)の塩焼きにしておこう。ひっそりとした田舎のとある定食屋で出てくる焼いた鮎の定食が大好きで、頻繁に食べに行く。
あなたは脂ののった身はもちろん、苦い内臓や、ぱりぱりしていて噛みごたえのある小骨や頭、塩の効いた皮まで残さず味わう。魚と一緒に食べるのは、炊き立ての白米や薄味のお味噌汁。それを引き立てる漬物も欠かせない。ぜーんぶひっくるめて「焼き魚最高!」と思っているわけだ。


するとあるときテレビでその定食屋さんの鮎の塩焼きが取り上げられ、店はテレビを見た人たちでにぎわうようになる。「自分のあのお店が!」という勝手な親心的喜びはありつつも、かつてのあの落ち着いたお店の趣はなくなり、なんだか寂しい気持ちも。でもこのくらいの寂しさは「まあそれでお店のおばちゃんが儲かるのならいいことだな」とこれまた勝手に自分に言い聞かせれば済むことだ。有名になったことだし友達も誘いやすい。そして友達を連れて久しぶりにお店を訪れたあなたは愕然とする。だれも魚の皮や頭なんて食べていないのである。中には漬物に全く手を付けずに席を立つ人もいる。そして彼らは口をそろえて言う。「魚おいしかった~」と。

 

違う!!断じて違う!お前らがおいしいと思っているのは脂ののった魚の身の部分だけであって、鮎の塩焼きの真骨頂は塩ののった皮、そして苦みのある内臓と脂身のハーモニー、歯ごたえのある小骨をかみ砕きながら、ほんのり甘い白米をかきこみ、そこに味噌汁と漬物の織り成す優しさとアクセントを加えて初めて成り立つものであって、つまりこれはある種の小宇宙であり、すなわちうおおおおおおお!!!!!!!!!!!!

 

というわけのわからない感情に襲われてあなたは自分のオタク要素を世間にさらけ出し、せっかく一緒に来てくれた友達をドン引きさせることになる。

 

この悲劇は誰に責任があるだろうか。
「魚の身のおいしさ」というキャッチ―な部分だけを取り上げたテレビ番組?
それとも何も考えずに流行を追い求める消費者?
あるいは定食の良さをもっと深く知ってもらうための努力をしない定食屋のおばちゃん?

 

違う。
悲劇の責任は他ならない「自分の価値観を他人に押し付けたあなた自身」にある。
そもそもこのお店の状況を「悲劇」としてしまうことに間違いがあったのだ。


定食屋のおばちゃん自身「頭なんかまずいから食べないよ~。のどに引っかかるから骨も無理。」と言っているかもしれない。炊き立てだと思っていた白米は冷凍で、自家製だと勝手に思いこんでいた漬物は業務スーパーで仕入れていたかもしれない。それはわからない。


たとえ自分の思った通り「定食全体として味わってほしい」という意図のもと、すべて手の込んだ方法で作られていたとしても、その意図をほかの人に押し付ける権利は少なくともあなたにはない。


つまり、あくまで鮎の塩焼きは生の「素材」であり、「骨や皮や漬物も含めて味わってほしい」という感情はあなたの「解釈」に過ぎないのだ。(漬物を残すのはマナー的にどうなのかという議論は置いておいて)そして文化の価値というものは、あくまでその「素材」を中心に議論されるべきものだ。

 

だからたとえば、あなたは鮎の塩焼きは好きだけど、ラーメンの汁は最後まで飲まないとしよう。麺食べただけでほとんどおなかいっぱいだもの。塩分だって気になる。
でもラーメンマニアからしたらそれはだめだと怒られるかもしれない。「このスープは店の大将が一週間煮込み続けたそれはすごいスープで、残すなんて言語道断。まずラーメンと一緒にご飯を注文しないのがあり得ない。ご飯とスープの兼ね合いがよいのだ。」といわれる。はあそうですか、となるあなた。でも麺とスープ以上の楽しみをラーメンに求めていなかったら何を言われても心は動かない。これ以上はいいっす。そもそもそんなにラーメン大好きってわけでもないし。

そういう風に、鮎の塩焼きに熱心なあなたにも、ラーメンというそれほど情熱を注げないジャンルもあるわけだ。

 

だからあなたは「焼き魚定食の全てを余すところなく味わうべき」という価値観を押し付けるのではなく、「焼き魚定食」という素材そのものへの世間的な認知度や評価が高まったことを喜ぶべきなのだ。

素材の認知度や評価が高まれば、おのずと自分と同じ価値観を持つ人も増えてくる。そういうプラスの面に目を向けてはどうだろう。多様な価値観を受け入れられる広い心こそ、素材への愛であり、素材の生産者への愛である。

 

だから結論として、「にわかファンが増える」のは悪いことではないのではない。
価値ある素材に多くの人が目を向けてくれるのは基本的には良いことのはずだ。
(普遍的な価値をもつ芸術文化が、マクドナルドみたいに画一的に安っぽく消費されるのは嫌だけど、その話はまた別の機会に。)

 

余談だけど、僕は鮎の頭もラーメンのスープも残します。
でも好みなんて年齢を追うごとに代わるものだし、10年後にはどうなってるかわからない。だから僕も幅広いジャンルを知りたいと思うし、他人にもいろんな素材が口合うかどうかだけでも試してもらいたいなあと思う。
今は全然気に入らなくても、もしかしたらずーっと後でそれが大好物になるかもしれない。

 

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エンタの神様とケントの3mm

独我論という考えがある。

 

簡単に言えば、「自分が今現在認識していないものは存在しない(存在を証明できない)」という考えだ。

例えば、今自分に見えているリンゴは確かにそこに存在していることを証明できる。見えているから。

けれどもリンゴを自分の背後に置いた時、そのリンゴがそこにあるという証明ができない。

突然そのリンゴが世界から消滅したとしても自分にはそれがわからない。

 

それとは少し違うけれど、僕は子供の頃、自分が寝ている間は世界そのものが存在していないんじゃないかと思っていた。

 

自分が目を閉じたその瞬間、世界も目を閉じる。 おやすみ。また明日。

 

そして翌朝僕が寝ぼけて目をさますその瞬間、世界は慌てて僕の寝ていた間の情報をポンっと提示するのである。

 

まだ自分の部屋で寝るのが怖い頃、僕らは親が起きているリビングに隣接する座敷で寝ていた。

母親は寝ようとする僕の隣に座り、僕が眠りに落ちるまで僕の肩に手を置いて、メトロノームのようにゆっくりと、ゆるやかなリタルダンドをかけてポンポンとたたく。

その心地よいリズムは安心感となって、僕はいつの間にか眠りに落ちている。

 

20時。就寝だ。

世界中の電気が消える。

 

それでも熱で学校を休んでいる時などは眠りが浅く、両親が起きている22時とか23時に目を覚ます時があった。

 両親は『エンタの神様』を見ながら氷結のブドウ味なんかを飲んでいる。

時計が11時の音を鳴らす。

 

僕はそんな普段なら僕が活動しえない、見ることもないはずの23時の世界を見るのが好きだった。

叩き起こされた世界が急ピッチで作り出す、イレギュラーな世界。

 

外が暗くなってから11時を指している時計を見ることもなんだかおかしかったし、まだ寝ている妹を見て、「こいつの世界じゃもう朝が来ているのかもしれない」なんてことを考えた。

 

最近の就寝時間は2時。26時だ。

今日も早く寝るつもりだったのがいつの間にかもうこんな時間になっている。

 

まあ僕が20時に寝ようが26時に寝ようが、バイト先の飲食店では今日も25時過ぎまで遅番が締め作業をしているだろうし、元バイト先のコンビニでは今日もあの髪の薄い社員が朝までバックルームでケントの3mmを吸っているはずだ。

 

でも幸いなことにそれを証明する手立ては今の僕にはない。

だから今日はもう寝ることにする。

 

もしかしたら僕が目を閉じたその瞬間、世界中の電気が消えて、まき作業をしている遅番のあいつも、タバコを吸う禿げた社員もパッと消えていなくなるかもしれない。翌朝iPhoneの木琴が僕と世界を叩き起こすまで。

 

それじゃあ、おやすみ。また明日。

 

 

豆袋の中に手を入れること

「アメリが好きなこと。それは、食料品店の店先にある豆袋の中にそっと手を差し入れて、できるだけ深く奥まで差し込むこと。」

 

映画『アメリ』には物語を俯瞰する語り手がいて、登場人物たちの「好きなこと」と「嫌いなこと」を逐一紹介してくれる。あたかもそれが彼らのアイデンティティの全てかのように。

 

アメリ風に今日の出来事を振り返るならばこうだ。

 

僕が好きなこと。

晴れた日曜日に溜まった洗濯と部屋の片付けをすること。作り置きのドライカレーを食べながら借りてきた映画を見ること。油を注したての自転車に乗って本屋さんに出かけること。夕暮れ時の鴨川沿いを北大路通りまで走ってDVDを返しに行くこと。

 

僕が嫌いなこと。

親からもらった天ぷら粉を一度も開けずに賞味期限を切らしてしまうこと。自転車を押しながら日曜日の三条商店街を歩くこと。帰り道でにわか雨に打たれること。新調したシンクのゴミ受けのサイズが流しと合わないこと。

 

そんな風にして一次元上にいる誰かが僕のことを事細かに分析して紹介してくれたらいい。僕としてはすごく楽だ。

でも現実はそうはいかない。自分を分析するのは自分しかいないし、そしてそれを相手にうまくプレゼンするのも自分しかいない。

 

本屋では就活の本を見てきた。

 

「就活の流れがまるごとわかる!」だの、「自己分析から始める就活」だの、「時事問題はこれ一冊!」だの、「なぜ就活はつらいのか」だの、目にするだけで全身が痒くなる類の本だ。

 

今までなんとなく問題に直面するのが嫌で避けてきたけれど、やっぱり見てきてよかったと思う。最近漠然と抱えていた焦りがすっと軽くなった気がした。とりあえずこれからやることが見えてきたからだ。まずは明日大学で今日目星をつけた本を何冊か買って、自己分析から始めてみようと思う。

 

そして今日は好きな事がもう1つ。

自分の好きなように好きなだけ好きな文章を書くこと。

 

「そして今日、彼はブログを始めたのでした。」

 

もしかしたら物語の全貌を知る誰かが僕の聞こえないところでそう呟いているのかもしれない。