エンタの神様とケントの3mm
独我論という考えがある。
簡単に言えば、「自分が今現在認識していないものは存在しない(存在を証明できない)」という考えだ。
例えば、今自分に見えているリンゴは確かにそこに存在していることを証明できる。見えているから。
けれどもリンゴを自分の背後に置いた時、そのリンゴがそこにあるという証明ができない。
突然そのリンゴが世界から消滅したとしても自分にはそれがわからない。
それとは少し違うけれど、僕は子供の頃、自分が寝ている間は世界そのものが存在していないんじゃないかと思っていた。
自分が目を閉じたその瞬間、世界も目を閉じる。 おやすみ。また明日。
そして翌朝僕が寝ぼけて目をさますその瞬間、世界は慌てて僕の寝ていた間の情報をポンっと提示するのである。
まだ自分の部屋で寝るのが怖い頃、僕らは親が起きているリビングに隣接する座敷で寝ていた。
母親は寝ようとする僕の隣に座り、僕が眠りに落ちるまで僕の肩に手を置いて、メトロノームのようにゆっくりと、ゆるやかなリタルダンドをかけてポンポンとたたく。
その心地よいリズムは安心感となって、僕はいつの間にか眠りに落ちている。
20時。就寝だ。
世界中の電気が消える。
それでも熱で学校を休んでいる時などは眠りが浅く、両親が起きている22時とか23時に目を覚ます時があった。
両親は『エンタの神様』を見ながら氷結のブドウ味なんかを飲んでいる。
時計が11時の音を鳴らす。
僕はそんな普段なら僕が活動しえない、見ることもないはずの23時の世界を見るのが好きだった。
叩き起こされた世界が急ピッチで作り出す、イレギュラーな世界。
外が暗くなってから11時を指している時計を見ることもなんだかおかしかったし、まだ寝ている妹を見て、「こいつの世界じゃもう朝が来ているのかもしれない」なんてことを考えた。
最近の就寝時間は2時。26時だ。
今日も早く寝るつもりだったのがいつの間にかもうこんな時間になっている。
まあ僕が20時に寝ようが26時に寝ようが、バイト先の飲食店では今日も25時過ぎまで遅番が締め作業をしているだろうし、元バイト先のコンビニでは今日もあの髪の薄い社員が朝までバックルームでケントの3mmを吸っているはずだ。
でも幸いなことにそれを証明する手立ては今の僕にはない。
だから今日はもう寝ることにする。
もしかしたら僕が目を閉じたその瞬間、世界中の電気が消えて、まき作業をしている遅番のあいつも、タバコを吸う禿げた社員もパッと消えていなくなるかもしれない。翌朝iPhoneの木琴が僕と世界を叩き起こすまで。
それじゃあ、おやすみ。また明日。