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かもしれないブログ

そうだったら良いなと思うことを書いています。

魚の皮を食べる人・残す人

 

「自分の好きなものを、もっと多くの人に知ってもらいたい」とよく思う。

 

自分しか知らないようなマイナーな漫画や小説、それに映画。
「こんなにいいものを知らないのはもったいない!」と思うのだ。
そういう意図もあって、僕はまとめサイトでカフェの紹介記事を書いたり、Filmarksや、本や映画や美術展の感想用のインスタグラムで長々と感想を書いたりしてる。そのすべては、「いいもの」をより多くの人に知ってもらうためだ。

 

ただ、自分の好きなものが有名になったらなったで厄介なことがある。
簡単に言えば、「にわかファンが増えること」だ。
にわかファンが増えることはなぜ悪いのだろうか。いや、そもそも悪いことなのだろうか。
今日はそれを考えてみたい。

 

長年のファンがにわかファンの増加を嫌うのには、大きく分けて二つの理由がある。

 

一つはよく言われる「サブカル選民思想」を持つことができなくなること。
「サブカル選民思想」とは、簡単に言えば「マイナーなジャンルを好きな俺はすごい!流行を追うだけの頭の悪いあいつらとは違うんだぜ!」というものだ。
その思想の良しあしはともかく、自分の好きなバンドがメジャーデビューして有名になれば、「みんなとは違う趣味のいい俺様」は流行に流された烏合の衆の一人に成り下がる。確かにそれは嫌だ。でもこれはあまりに自分勝手な理由だから、にわかファンの増加を悪くは言えないよね。

 

今日僕がしたいのはサブカル批判じゃない。
今回話題にしたいのはもう一つの理由。

名付けて「魚の皮理論」。


ここから先は僕の表現力とあなたの想像力とのせめぎあいだ。
想像していただきたい。
あなたは焼き魚が好きだ。具体的にはなんでもいいんだけど、鮎(あゆ)の塩焼きにしておこう。ひっそりとした田舎のとある定食屋で出てくる焼いた鮎の定食が大好きで、頻繁に食べに行く。
あなたは脂ののった身はもちろん、苦い内臓や、ぱりぱりしていて噛みごたえのある小骨や頭、塩の効いた皮まで残さず味わう。魚と一緒に食べるのは、炊き立ての白米や薄味のお味噌汁。それを引き立てる漬物も欠かせない。ぜーんぶひっくるめて「焼き魚最高!」と思っているわけだ。


するとあるときテレビでその定食屋さんの鮎の塩焼きが取り上げられ、店はテレビを見た人たちでにぎわうようになる。「自分のあのお店が!」という勝手な親心的喜びはありつつも、かつてのあの落ち着いたお店の趣はなくなり、なんだか寂しい気持ちも。でもこのくらいの寂しさは「まあそれでお店のおばちゃんが儲かるのならいいことだな」とこれまた勝手に自分に言い聞かせれば済むことだ。有名になったことだし友達も誘いやすい。そして友達を連れて久しぶりにお店を訪れたあなたは愕然とする。だれも魚の皮や頭なんて食べていないのである。中には漬物に全く手を付けずに席を立つ人もいる。そして彼らは口をそろえて言う。「魚おいしかった~」と。

 

違う!!断じて違う!お前らがおいしいと思っているのは脂ののった魚の身の部分だけであって、鮎の塩焼きの真骨頂は塩ののった皮、そして苦みのある内臓と脂身のハーモニー、歯ごたえのある小骨をかみ砕きながら、ほんのり甘い白米をかきこみ、そこに味噌汁と漬物の織り成す優しさとアクセントを加えて初めて成り立つものであって、つまりこれはある種の小宇宙であり、すなわちうおおおおおおお!!!!!!!!!!!!

 

というわけのわからない感情に襲われてあなたは自分のオタク要素を世間にさらけ出し、せっかく一緒に来てくれた友達をドン引きさせることになる。

 

この悲劇は誰に責任があるだろうか。
「魚の身のおいしさ」というキャッチ―な部分だけを取り上げたテレビ番組?
それとも何も考えずに流行を追い求める消費者?
あるいは定食の良さをもっと深く知ってもらうための努力をしない定食屋のおばちゃん?

 

違う。
悲劇の責任は他ならない「自分の価値観を他人に押し付けたあなた自身」にある。
そもそもこのお店の状況を「悲劇」としてしまうことに間違いがあったのだ。


定食屋のおばちゃん自身「頭なんかまずいから食べないよ~。のどに引っかかるから骨も無理。」と言っているかもしれない。炊き立てだと思っていた白米は冷凍で、自家製だと勝手に思いこんでいた漬物は業務スーパーで仕入れていたかもしれない。それはわからない。


たとえ自分の思った通り「定食全体として味わってほしい」という意図のもと、すべて手の込んだ方法で作られていたとしても、その意図をほかの人に押し付ける権利は少なくともあなたにはない。


つまり、あくまで鮎の塩焼きは生の「素材」であり、「骨や皮や漬物も含めて味わってほしい」という感情はあなたの「解釈」に過ぎないのだ。(漬物を残すのはマナー的にどうなのかという議論は置いておいて)そして文化の価値というものは、あくまでその「素材」を中心に議論されるべきものだ。

 

だからたとえば、あなたは鮎の塩焼きは好きだけど、ラーメンの汁は最後まで飲まないとしよう。麺食べただけでほとんどおなかいっぱいだもの。塩分だって気になる。
でもラーメンマニアからしたらそれはだめだと怒られるかもしれない。「このスープは店の大将が一週間煮込み続けたそれはすごいスープで、残すなんて言語道断。まずラーメンと一緒にご飯を注文しないのがあり得ない。ご飯とスープの兼ね合いがよいのだ。」といわれる。はあそうですか、となるあなた。でも麺とスープ以上の楽しみをラーメンに求めていなかったら何を言われても心は動かない。これ以上はいいっす。そもそもそんなにラーメン大好きってわけでもないし。

そういう風に、鮎の塩焼きに熱心なあなたにも、ラーメンというそれほど情熱を注げないジャンルもあるわけだ。

 

だからあなたは「焼き魚定食の全てを余すところなく味わうべき」という価値観を押し付けるのではなく、「焼き魚定食」という素材そのものへの世間的な認知度や評価が高まったことを喜ぶべきなのだ。

素材の認知度や評価が高まれば、おのずと自分と同じ価値観を持つ人も増えてくる。そういうプラスの面に目を向けてはどうだろう。多様な価値観を受け入れられる広い心こそ、素材への愛であり、素材の生産者への愛である。

 

だから結論として、「にわかファンが増える」のは悪いことではないのではない。
価値ある素材に多くの人が目を向けてくれるのは基本的には良いことのはずだ。
(普遍的な価値をもつ芸術文化が、マクドナルドみたいに画一的に安っぽく消費されるのは嫌だけど、その話はまた別の機会に。)

 

余談だけど、僕は鮎の頭もラーメンのスープも残します。
でも好みなんて年齢を追うごとに代わるものだし、10年後にはどうなってるかわからない。だから僕も幅広いジャンルを知りたいと思うし、他人にもいろんな素材が口合うかどうかだけでも試してもらいたいなあと思う。
今は全然気に入らなくても、もしかしたらずーっと後でそれが大好物になるかもしれない。

 

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