弁当を守ること
弁当を持つ日はやけに緊張する。
弁当というのはとても傷つきやすく、ちょっとぐちゃぐちゃになっただけですごい罪悪感にさいなまれるものだからだ。
高校時代はずっと弁当生活だった。
朝、炊き立てのご飯と出来立ての料理を詰められてほんのり熱を帯びた弁当箱を受け取る。ここが弁当のピーク。ここからは時間との戦いだ。時間が経てば経つほど、ご飯は水分でぺちゃぺちゃになり、おかずもみるみる冷めていく。
さらに通学のバス。こいつが厄介だ。
弁当箱は通学バックに入れずに手に提げて持っていくのだが、落としたりしては大変だし、ちょっとした揺れでも中身が心配で落ち着かない。バスの中に弁当を置き忘れた日などは絶望的だ。放置されたお弁当がそれはもうかわいそうで、取り戻すまではおちおち学校になんて行っていられない。
無事に学校についたとしても油断は禁物。
机の横に弁当箱をかけておくとふとした拍子に落ちてしまうかもしれないし、ロッカーに入れていてもカバンを取り出す際に引っかかって落としてしまうときもある。
そういうミスを犯して弁当の中身が一方に偏ったり、おひたしの汁が炒め物のゾーンに流れ込んでぐちゃぐちゃになったりしたときは、決まって胸が締め付けられる思いがした。
誕生日プレゼントの場合だと、受け取った人がプレゼントをもらってから消費する(プレゼントを身に付けたり食べたりする)までにあまり時間はかからない。だから消費する前に、もらった人がそれを壊してしまうなんてことはほとんどない。
一方で、弁当の場合はプレゼントと違って、もらってからそれを消費するまでの大半の時間、もらった人がそれを管理しなくちゃならない。多くの場合は半日以上、しかも移動を伴う。だからプレゼントと比べて、もらった人が消費する前にそれを壊したり損なったりしてしまう可能性が高いのである。
弁当は壊れうる、自分の手で壊しうる愛情なのだ。僕はそれを壊してしまうのが怖い。
だからどうしても弁当を持たされると身構えてしまう。
でもそもそも、他人から受ける愛情というのはそういうものなんじゃないか。
自分のちょっとした言葉や振る舞いが、その人の気持ちを傷つけることなんて日常茶飯事だ。「傷つきました」と相手から直接告げられない場合も多いかもしれないが。
弁当はしばしば広告やドラマの中で、愛情の象徴のように扱われる。
その理由は単純。弁当を毎日作るのはとても労力のいることだからだ。朝早くから準備しなくちゃいけないし、前日から弁当のメニューを考えて材料を用意しておかなきゃいけない。
でももしかすると弁当が愛情の象徴とされる一番の理由は、弁当は「愛情というのはちょっとした不注意でいとも簡単に壊れてしまうのなのよ」ってことをさりげなく思い出させてくれるものだからなのかもしれない。