東京ひとり旅
朝7時、東京につく。夜行バスやっぱり首痛い。
まずは新宿。インスタでいいね!がむっちゃもらえると話題のブルーボトルコーヒーへ。
オッシャレ〜〜。その場でお姉さんがコーヒーを作ってくれます。味の好みも調節できるらしい。
そうとは知らず適当に頼んだ僕。お味の方は…ズズ。すっぱい。すっぱいな〜〜。あ、でも悪くないかも。酸味きついの苦手だけどこれは案外イケる。
ちなみにインスタは51いいね。びみょい。
そのあと腹が減ったので朝マック。近くのパン屋のパンは高かったので遠慮した。
続いて新宿御苑に。
ええ感じ。涼しくて散歩日和ですな〜〜。日本庭園と西洋庭園の両方があるらしい。いいね。
日本庭園。ビルとのコントラストがエモい。
そのまま池の方へ。池に架かる橋を渡る。コイがいた。池の上で手をパラパラとエサをあげるふりをすると寄ってくる。
パクパクパク。色黒いやつばっかり。派手さがない。アルビノもいた。コイはやっぱりヒゲがカッコいい。
さらに進むとベンチが。
花がきれい。ここで本を読みながらうたた寝してたらいつの間にか死んでる、みたいな最期を迎えたいと思った。
言の葉の庭の名シーンのモデルになった東屋。言の葉の庭見たことないけど。
さらに進むとなにやらイカツイ建物が。中国風?むっちゃ派手。
説明みるとやっぱり中国、台湾の様式で作ったものらしい。いつぞやの皇太子の結婚を記念して作ったとか。
中はこんな感じ。まっぷるとか旅行雑誌によくある写真の撮り方で撮ってみた。それっぽい。
お次は電車に乗って四谷、迎賓館へ。
見えて来た見えて来た。荘厳だよこれは。左右対称の見事なバロック様式。
ででーん。近くによるとこんな感じ。でかい。まじで伝わりきらないでかさ。もはや宮殿。
ここから30分ほど並んで中へ。オフの日の大学教授みたいな人が多い。
中はこれ以上に豪華!写真は撮れなかったけど、バロックの西洋風宮殿に、木とか日本の鳥とか松とか和の要素が散りばめられてて興味深かった。庭ではウグイスが鳴いていた。
門さえもカッコいい。菊紋がやっぱりイケてる。
門の前の警備所がかわいい。ウェスアンダーソンを感じる。
続いて昼ごはんを食べに明治神宮外苑へ。
明治神宮外苑の中心にあるなんちゃら記念館。ゴツい。まったく可愛くない。とくにあのヘルメットみたいなドームが無理。要塞みたいで禍々しい。趣味悪い。
明治神宮球場。ここスワローズの本拠地なんだな。知らんかった。常識がなさすぎる。「基礎からわかる!社会人からのプロ野球」みたいな教材ほしい。あとあれ、つば九郎?ってサイコパス感ない?直視できない。
さらに外苑を進む。イチョウの並木かしら。
着きました。昼食はここShake Shack。なんでも最近日本に上陸した外国のハンバーガー屋、らしい。パリピ感のあるBGMがかかっている。
スタンダードな感じのバーガーを注文。うめえ。肉うまっ。んま〜〜。今朝に食べたソーセージマフィンの5万倍くらいうまい。てかここでバーガー食べる予定だったのになんで朝マックなんかしたんやろ。クソすぎ。
食べてから店を出る。隣にはkiriカフェが。普通に気になる。
ハトさん。座ってるハトさんは珍しい。目がクリクリしてかわいかった。
お次は青山、ホンダプラザへ。車が展示してある。テカテカだ。
運転シュミレーターがあった。普通におもろい。グラセフVRって感じ。真面目に運転したけどこれのグラセフ版やりたい。
アシモのショーを見て来た。アシモってすごいな。走るし片足ジャンプとかするし。ペッパー君に押されてると思ってたけどホンダぱねえ。
このあと電車で本社へ。時間配分いい感じ。東京1日目いい感じで終われました。実はこのスケジュール、前日に父親に「東京でどこかいいとこある?」ってきいたら教えてもらったもの。
父親のライン。スパイの指令かよ、おもろい。なんだかんだ行ったところ全部おもろかったし感謝感謝。
明日は今日行けなかった銀座シックスとバベルの塔展に行こう。疲れた〜〜寝る。
鳥を撮った話
そう思って、町へ出ました。
歩いて。三条まで。
いざタリーズの前へ。
急に入る気が失せた。混んでた。
薬局へ行った。
前から買おう買おうと思いつつ買えてなかったリップクリームとポケットティッシュを買った。
リップクリーム使ったの何気に人生初めてだ。
ブックオフに行った。
気付いた。
なんか今日はブックオフの気分じゃない。
やべえ。やることねえ。
行くところもねえ。
あーエントリーシート書こう思ってたのに。
薬局でリップクリーム買っただけで一日終わってしまう。
鴨川で鴨でも見て帰ろう。
ぼくは鴨川で鴨を見ることに何よりも喜びを感じる。
鴨川にはあんまり鴨がいなかった。
仕方ないので少し歩いて琵琶湖疎水へ行く。
だいぶ歩き疲れた。
近くにいたマガモ
マガモがいた。結構近くにいた。
かわいい。落ち着く。
少年が釣りをしている。
少年はパンをちぎって疎水に投げ始めた。
近くにいマガモはすーっとパンの方へ。
鳥にエサやったらあかんやろ。
と思ったけど、そもそもなんで鳥にエサやったらあかんのかな。
なんでなんやろ。でもたぶんダメだと思う。
少なくともぼくのマガモを奪わないでほしい。
去って行くマガモ
マガモがいなくなったので帰る。
ダムのところにヒドリガモがいた。
このレンガ造りのダムは風情があって好きだ。
夷川発電所というらしい。
発電所の近くの遊歩道を通って帰る。
おじさんがブルーシートを広げている。
ここを通るたびに見かけるおじさんだ。
おじさんは針金でカゴを作っている。
売っているのかしら。なぞだ。
遊歩道には鳥もいた。
鴨じゃない。綺麗な鳥だ。
珍しいなと思ったが、やけに見かける。
ぼくに付いてきてるみたいだった。
シャッターチャンスがあった。
パシャパシャ撮った。
膨らみかけのサクラに映える。
絵になる鳥だ。
サクラに映えるジョウビタキ
後から調べて見た。
どうやらジョウビタキという鳥っぽい。
冬の渡り鳥だそうだ。
丸太橋を渡って帰る。
丸太橋の中央部には意味のない膨らみがある。
そこの橋げたに手をかける。
晴れた日に橋の上から鴨川を眺めることは、人生で最も素晴らしいことの一つだ。
丸太橋から見た鴨川下流
広い空。上にはトンビ、下には鴨。
遊ぶ子供に、和むカップル。
ランナー、老人、家族連れ。
ここだけ見ていれば、世界中に悪意など存在しないようにさえ思えてくる。
別に通行上大した役にも立たない膨らみだけど、この膨らみをつけられる京都市はさすがだ。
中洲の方にはヒドリガモがいっぱいいた。
かわいい。
ヒドリガモの大群
上を向けばマガモが。
こうして見るとなんだか雅である。
飛ぶマガモ
鳥を見て元気になった。
ありがとう鳥。フォーエバー鳥。
ハリーポッターと村上春樹の騎士団
今日、村上春樹の新作長編『騎士団長殺し』が発売されますね。
僕は小説をがっつり読むようになったきっかけが、中学1年の時に読んだ『羊をめぐる冒険』で、それ以来村上春樹が大好きなんです。
でも、毎回新作が出る度(とノーベル賞発表の時期)お決まりのように「御都合主義的なエロシーンがうざい」「主人公が気取りすぎてきしょい」といったアンチハルキの声が聞こえてきます。
なので、今回はあえて批判を恐れずに、『嫌いな人でも楽しめる村上春樹の楽しみ方』をテーマにブログを書きます。
ただ、「一冊通して読んでみたけど、主人公のキモさがほんとに無理」ってほど強烈に嫌いな人は多分これ読んでも正直読みたいとは思わないかも…。
どちらかというと「昔にちょっとだけ読んでみたけどよくわからんかった」または「読んだことないけど、気取ってるんでしょ?」って人に読んで欲しい内容です。
まず、全く読んだことない人のために村上春樹の小説の特徴を3つ説明します。
1つは、主人公の使う言葉(と地の文も)が小難しくて気取ってるところ。「英語を直訳したような文章」とよく感じます。
2つは、主人公がなぜかむちゃくちゃモテて、エロシーンが多いこと。
なので、村上春樹の主人公は息をするようにいつも家でジャズを聴きながら優雅にウイスキーとか飲んでるんです。
それでいてなんか難しい言葉を使って人生に悲観的になってる。友達は全然いない。オシャレぼっち的な。でも一歩外に出ればなぜか簡単に色っぽい女の人に言い寄られて、いつの間にかベッドインします。どの小説見ても結構このパターンは多いです。
なのでこれはまあ嫌われて当然というか、確かに実際にこんな奴いたら嫌だろうなって感じなんですよね笑。
でも面白い特徴もあって、それが3つめ。
3つめの特徴は、ちょっとファンタジックな要素があること。
猫と喋れるおじさんが出てきたり、動物のアシカが祭りを開いたりする。そこまではいかなくても登場人物の行動がいちいち謎だったりする。
という感じで1〜3の特徴を含めると、「こんなんあるかよ、きしょw」となる小説が出来上がるわけです。
でもそういう「変な登場人物の話し方や行動がその世界では普通」というファンタジー小説だと思って読むとね、これが面白いんですよ。
はい、今回の結論はこれ。
「村上春樹の小説はそういうファンタジー世界の話だと思って読むと面白い(と感じる人もいる)」。
だから例えばハリーポッターの世界に空を飛ぶ車や、猫に変身する先生がいるじゃないですか。でもそれに文句は言わないでしょ。
それと同じように、村上春樹の世界では主人公が目を覚ますと双子の美女と一緒に裸でベッドの中にいても、それはそういう世界なので許されるというか。そこが面白みになるというか。何いってんだ俺。
まあいいや。そういった世界が変に思えるのは、村上春樹の場合は、世界設定に加えて登場人物たちの考えや行動までもが現実離れしてるからだと思う。そこも含めて面白いと僕は思うんだけどなあ。
でも、この「ファンタジーとしての村上春樹」を楽しみたいなら、いきなり『ノルウェイの森』とか『風の歌を聴け』とか読んでもそんなに面白く感じないかも。
僕がオススメしたいのは、『海辺のカフカ』とか、『神の子たちはみな踊る』っていう短編集の中の『かえるくん、地球を救う』とか。こっちの方がファンタジー色が強いのでさらっと読めるかも。カフカとかあと『1Q84』になると長編だけどミステリー要素も強いから案外読みやすいと思う。
個人的な感想だけど、『ノルウェイの森』は正直ぜんぜん面白くない!『ノルウェイの森』だけ読んでつまらなかったらといって諦めるのはちょっともったいないかも。
あとはエッセイもオススメ。小説はあんな感じで気取ってるけど、エッセイは割と普通だから!!意外と腰が低くかったり、どことなくかわいいかったり。小説とは違ったベクトルでかなり面白い。
えーということで長々と書きましたが、今朝僕も『騎士団長殺し』買ってきました。楽しみ!
別に誰が何を読もうがその人の自由なんですが、しっかり読んでおけば本当は自分にすごく合うかもしれないものを、食わず嫌いで読まずじまいになるのってもったいないなーと思うんですよね。
なので、何様だよって感じですが、これを読んだ方がちょっとでも村上春樹読んでみようかなと思っていただけたら、1人の本好きとして幸いです。
雪と雲と綿菓子
一面の白。名神高速道路沿いの山々は、ずっしりとした雪で覆われていた。それでもなおも降り続ける雪、雪、雪。強い風におおられて地面と平行に吹き抜ける。今年一番の大寒波だ。
久しぶりに見る一面の新雪は、なんだか妙にそそる。幼い頃、わざと道を外れて新雪に自分の足跡をつけに行ったり、そっと手にすくってみたり、思いっきり飛び込んでみたりしたのを思い出す。今でも新雪があるとわざわざそこを踏んで足跡をつけたくなる。
でもそうやって靴に入り込んだ雪は想像以上に冷たいし、水になった雪が靴の中でどうしようもなく染み渡っていく感触はかなり不快だったりする。
雪かきでスコップに乗せた雪はかなり重かった。春先に車道で踏みにじられてぐしゃぐしゃになった雪は泥にまみれていて汚かった。一度溶けてまた固まったザラザラの雪は見た目は綺麗だけど、触るとけっこう痛くてげんなりさせられた。
京都にいるとそんな雪の嫌な部分はあんまり感じない。雪はさらさらと降ってはすぐに溶けてなくなる。その儚さに美しさを覚えるくらいだ。
でもやっぱり雪のそんなうんざりする側面がないと雪は雪らしくないような気もする。柔らかさだとか純粋さみたいな、人間が雪に勝手に求める理想や欲望みたいなものを、冷たさとか汚さで無慈悲に突っぱねてくる反骨心みたいなのが好きだ。
雲に実体がないように、綿菓子が不愉快なほどベトベトするように、白くて柔らかいものはどことなくそんな共通点があるような気がする。というか、人間がそれらに過剰な期待を寄せすぎているだけなのかもしれないけれど。
雪は、東京の人が思うようなロマンチックで幻想的なものとは本質的には違うような気がする。でも、そんな雪の感触や重みに僕はノスタルジーを感じて、やっぱり雪に惹かれるのかもしれない。
伏線上のチャッピー
子供の頃の遊びといえば、ぬいぐるみ遊びだった。遊び相手は妹や友達だ。
妹のシルバニアファミリーとか、大きい怪獣のぬいぐるみとか、僕の好きだったチャッピー(ピクミンに出てくるかわいいモンスター)のぬいぐるみを使って、自由に遊んだ。
やり方はこう。まずはあらかじめ、最初の設定(人形の家族構成だとか)を決めておく。あとはそれぞれが自分のぬいぐるみを勝手に動かして即興でストーリーを作っていく。それだけだ。
登場キャラクター達は、遠足に行ったり買い物をしたり、おままごと的な家庭ストーリーをなぞる。でもそのあとの展開として多かったのは、協力して怪獣を倒したり、チャッピーをペットとして飼ったりすることだった。ぬいぐるみのおままごとに、ファンタジー要素、アクション要素を取り入れたのだ。男女入り混じる兄妹ならではの遊びだった。
僕は「ピンチでこいつが助けに来たら面白いな」とか、「このシーンでさっき死んだあのキャラが復活したら面白いな」とか、子供なりにどう面白くできるか考えた。今の言葉で言うと、伏線を張っていたのである。でもその伏線を回収するために妹のキャラをピンチに陥らせたり、殺したりするわけだから、当然伏線を知らない妹たちは怒る。妹たちのキャラが僕の思い通りに動いてくれないこともあって、よくケンカもした。
小学校低学年くらいまでこの遊びをやっていたような気がする。子供の頃の遊びについて今の友達と話すことも多いけど、こんな遊びをしていたという友達は聞いたことがない。今思うと、ずいぶん女の子のような遊びをしていたものだ。
でもどうやったら面白い演出になるかと考えたり、その場のノリでストーリーをどんどん変えていったりすることって、実はすごく創造力のトレーニングになっていたんじゃないかと僕は思う。
今年僕は22歳になる。あのころから15年が経った。今までいろんな遊びとかゲームをしてきたけど、あれほど自由度の高い遊びはなかった。
本当に面白い遊びは、どうすれば面白くできるかを自分の裁量で自由に試せて、なおかつ他人のパフォーマンスとの化学反応があって、即興性のあるものなんだと思う。芸人たちのバラエティや、ジャズの即興ライブとかもそう。
今、もう一度あの遊びを妹たちしたらどんなストーリーができるだろう。昔は伏線を作る意図を伝えずに妹とケンカした。今ならさりげなく伏線を悟らせて、お互いに相手のノリに合わせて面白いものを作れるような気がする。昔の僕たちをギャフンと言わせられるようなストーリーを作れたら嬉しいな。
化石
化石ってすごい。その化石を見ただけで、その化石が何万年前にできたとか、昔は浅い海の底だったとかがわかるのだ。
僕の中にも、化石になった音楽がある。
中学の頃にいつも車で流れたかりゆし58、高校の時に初めてバンドでやったcoldplay、大学一年の春初めて聴いたELLEGARDEN。
その当時は猛烈に聞き込んでいたけれど、いつの間にかあまり聞かなくなってしまった。
ふとした時にそういう曲を聴くと、聞き込んでいた当時の何気な〜い記憶が思い浮かんできて、ハッとすることがある。
それは車の芳香剤の香りだったり、バンドメンバーのギターケースの色だったり、スタジオに向かう自転車のペダルの重さだったりと様々だ。
今では、そういう全ては遠いものになってしまった。でも僕には、聴くたびにそんなどうでもいいような記憶を思い出させてくれる音楽がある。そういうのを思い出すたびに、恥ずかしいような、ちょっと誇り高いような妙な気持ちになる。
今、サークルの友達とオリジナルの曲を作っている。先日「音楽が思い出させてくれる何気ない記憶」みたいなものを切り口にデモを作ってみた。完成まではあと数ヶ月かかる。
来年は大学も最後。変動の年だ。来年の今頃には就職先が決まったり、卒論に追われていたり、今では想像もつかないようなことが起きているんだろうなあ。
今はその変動に向けて、就活の準備とかに追われている。とにかく心に余裕がないのが自分でもわかる。そのあくせくした心境が、曲のデモにも反映されてしまった。
何はともあれ1年後の今日、完成した曲を聴いて今年のことを思い出せたら面白い。「あの時は無駄にいろんなことに切羽詰まっていたなあ」とか思うのかな。それならそれでいい。それでまたがむしゃらにその次の年に奮起してくれたらもっといい。
化石は長い年月の間に、石油だとかガスみたいな燃料になる。しょうもない思い出を再生するだけに思える音楽の化石も、積もり積もって何年後、何十年後かの自分のエネルギーになるのかもしれない。
弁当を守ること
弁当を持つ日はやけに緊張する。
弁当というのはとても傷つきやすく、ちょっとぐちゃぐちゃになっただけですごい罪悪感にさいなまれるものだからだ。
高校時代はずっと弁当生活だった。
朝、炊き立てのご飯と出来立ての料理を詰められてほんのり熱を帯びた弁当箱を受け取る。ここが弁当のピーク。ここからは時間との戦いだ。時間が経てば経つほど、ご飯は水分でぺちゃぺちゃになり、おかずもみるみる冷めていく。
さらに通学のバス。こいつが厄介だ。
弁当箱は通学バックに入れずに手に提げて持っていくのだが、落としたりしては大変だし、ちょっとした揺れでも中身が心配で落ち着かない。バスの中に弁当を置き忘れた日などは絶望的だ。放置されたお弁当がそれはもうかわいそうで、取り戻すまではおちおち学校になんて行っていられない。
無事に学校についたとしても油断は禁物。
机の横に弁当箱をかけておくとふとした拍子に落ちてしまうかもしれないし、ロッカーに入れていてもカバンを取り出す際に引っかかって落としてしまうときもある。
そういうミスを犯して弁当の中身が一方に偏ったり、おひたしの汁が炒め物のゾーンに流れ込んでぐちゃぐちゃになったりしたときは、決まって胸が締め付けられる思いがした。
誕生日プレゼントの場合だと、受け取った人がプレゼントをもらってから消費する(プレゼントを身に付けたり食べたりする)までにあまり時間はかからない。だから消費する前に、もらった人がそれを壊してしまうなんてことはほとんどない。
一方で、弁当の場合はプレゼントと違って、もらってからそれを消費するまでの大半の時間、もらった人がそれを管理しなくちゃならない。多くの場合は半日以上、しかも移動を伴う。だからプレゼントと比べて、もらった人が消費する前にそれを壊したり損なったりしてしまう可能性が高いのである。
弁当は壊れうる、自分の手で壊しうる愛情なのだ。僕はそれを壊してしまうのが怖い。
だからどうしても弁当を持たされると身構えてしまう。
でもそもそも、他人から受ける愛情というのはそういうものなんじゃないか。
自分のちょっとした言葉や振る舞いが、その人の気持ちを傷つけることなんて日常茶飯事だ。「傷つきました」と相手から直接告げられない場合も多いかもしれないが。
弁当はしばしば広告やドラマの中で、愛情の象徴のように扱われる。
その理由は単純。弁当を毎日作るのはとても労力のいることだからだ。朝早くから準備しなくちゃいけないし、前日から弁当のメニューを考えて材料を用意しておかなきゃいけない。
でももしかすると弁当が愛情の象徴とされる一番の理由は、弁当は「愛情というのはちょっとした不注意でいとも簡単に壊れてしまうのなのよ」ってことをさりげなく思い出させてくれるものだからなのかもしれない。